<   2013年 06月 ( 10 )   > この月の画像一覧

インド映画ブームのハシリとなった『踊るマハラジャ』。主演のラジニ・カートンの映画『ロボット』『ボス』を立て続けに見た。
『ボス』はロボットの原型になったと聞いていたが、実際、見てみるとそうでもなかった。SFでなく実在の人物が主役であり、汚職と賄賂がはびこるインド社会が舞台であった。
相変わらずの群舞と歌が映画を彩っていた。だが私は『ロボット』『ボス』も気になるところがあった。
性表現には厳しいのに暴力表現は激しい点だ。韓国ドラマにも共通している。(映画は別)。勧善懲悪的なことを人々が求めるからだろうか。韓国もインドも閉塞感のある格差社会なのかもしれない。
そして男性の一目ぼれから始まる恋愛は強引なアプローチで、女性は常に受身なのも同じだった。

ところがこのインド映画二原則(?)がない映画がある。今年、公開された『きっと、うまくいく』だ。
恋する輪廻』以降、わずかな期間にインド映画を4本見たが、言えるのは『きっと、うまくいく』は別格。飛びぬけて素晴らしい映画だということだ。世界各地でリメイクが決定しているのも頷ける。
『きっと、うまくいく』はダンスや歌で強引に話を進めるのでなく、筋でも魅せる。
消えたランチョーを友人たちが追う現在と、過去の学生時代、二重仕立てで話が進んでいくそのバランスが実にうまい。
「消えたランチョーを追え」と単純に見ても楽しく爽快感があるが、登場人物の誰かとシンクロする部分があると余韻と深く考えさせる何かが残る。よい映画とはそういうものでしょう。

私はランチョーの学問哲学が好きだ。とても論理的でわかりやすい。
わかりにくい言葉を並べて講義する教授に反発し、簡単な言葉でストレートに言い表すランチョー。
就職のための点数至上主義に陥っている仲間に「やらされる勉強は人生が勿体ない」。
いつも何かにストレスを感じている自分は「やらされ感」がつきまとう。ランチョーの言う通り。せっかくの人生、勿体ないね。
一休さんのように(笑)持ち前の機転と明るさで、降りかかる困難を乗り越えるランチョーに励まされる。しかしランチョーとて完璧な人間ではない。好きになった女性に積極的に出られない・・・

決してスーパースターでないランチョーに悪友たち、三人が織りなす青春群像劇がなぜこんなに心に残るのだろう。
『きっと、うまくいく』は世代を超えた笑いと涙と感動を生む。映画を見逃した人は是非、DVDで見て欲しい。今年上半期のマイベスト映画です。
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<映画.comより>               
中古ピアノの買取ネット査定を申し込んだ。
早速、返事が来た。
“製造から約○十年という経過年数などから、中古市場での再販見込み価格が下落しており、再生までの経費を考えますと、恐縮ながらお買取や無料でのお引取は厳しい状態です。
査定内容 :31,500円(税込)のお客様ご負担額が生じます。“

それはそうでしょう。私も値段がつくとは思っていなかったが、弟があまり言うのでしょうがないから査定してもらっただけだ。

ところが翌日またメールがきた。
“査定金額 ¥12,000- 
引取日当日に現金にてお支払いします。
下記「※注意事項」に該当するような事が無ければ減額はありませんので、ご安心ください。
作業費、運送費は弊社が全額負担いたします。“

あらまぁ、これはどういうこと?わたしはすぐには理解できなかった。
どうやら複数の買取業者に査定してもらうサイトだったようだった。
支払うか、もらうかこの差47,500円!
その上、ダメ押しでそこの業者から電話がきた。
「まだ(他社に)お決めになっていないなら是非、当社でお願いします。」

そうなると今度はお金をもらっていいのだろうかと不安になってきた。
どの鍵盤も音は出るには出るのだが埃がすさまじい。それもそのはず何十年と弾かれていなかった実家のピアノだ。鍵盤にはまるで粉をふいているような埃がつもっていた。ピアノ本体の艶はとっくになくなり、ペダルの色はくすんでいる。買取に来てくれたはいいけど「こんな状態ではお金を払えません。」と言われないだろうか。

掃除機のノゾルを替え、鍵盤のほこりを念入りに吸い取った。だが鍵盤の間の長年の埃がなかなか取れない。それで爪楊枝で一つ一つ隙間をほじくって埃をかき出す。次にワックスで磨く。
ピアノも同じように力を入れて磨いていく。手が痛くなり、部屋中にワックスの匂いが充満した。
不思議なもので艶が出てくると長い間、眠っていたピアノが息を吹き返したようになった。

雨の日、約束通りピアノ業者がやってきた。鍵盤の状態を確かめるわけでもなく、着く早々に代金が入った封筒を渡してくれた。こんなアバウトなことでいいのだろうか、逆に私の方が心配になったほどだった。
毛布を床に敷き、体にタスキをまきつけて二人で庭からトラックに運んでいった。
ピアノがあった場所に掃除機をかけ雑巾で拭いた。
少し色の変わった床がピアノがあったことを物語っていた。

どこにいくのだろうか。ピアノを習い始めた人の家だろうか。外国だろうか。
お金を払えば産廃。お金をもらえば再利用。
実家のピアノをどこかで弾いてくれる人がいる。そう思うと、お金をもらったことより嬉しくなるのだった。
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<ピアノの上 母の手作り人形たち>
あまちゃん』の快進撃が続く。雑誌にはあまちゃん記事が毎週、踊る。
私の周りでも『あまちゃん』見ている人が多く、体感視聴率は50%くらいだ。老いも若きも男性も女性も見る文字通り国民的朝ドラになりつつある。

人気の秘密の一つに「笑い」があろう。
あまちゃんの笑いには基本的には言葉遊びが多いが、はずせないのがマニア向け笑いだ。花巻さんの笑いを理解するには洋楽の知識がいる。それから台詞はないが、小道具に込めた笑い、これが実は曲者なんですよね。
勉さんに弟子入りしたが、実はスカウトマンだったことがばれ去った水口。琥珀には1ミリも興味もなかった水口が琥珀を手にしてせっせと磨いている今日のシーン。二度目視聴で琥珀に気づきました(笑)。

f0234728_23323117.pngクドカンは1話に笑いをこれでもかと詰め込む。
以前、『吾輩は主婦である』のDVDを友人に貸した。友人は三、四話まとめて見たら濃すぎてすごく疲れたと言った。クドカンドラマは、牛のように反芻しながら少しずつ見て味わうのがちょうどよいのだろう。

とにかく『吾輩は主婦である』でクドカンワールドにはまった私は『あまちゃん』ブームの今、ちょっと鼻が高い。『吾輩』は昼ドラだったからか、残念ながら世間の認識度は今一つである。
『あまちゃん』でクドカンのファンになった人に是非見てもらいたいドラマである。

*『吾輩は主婦である』にはクドカンお気に入りアイドルNo1.の斎藤由貴が主演している。
実家引き渡しまであと2週間。
いい加減、遺品整理を業者に任せたらと私の身体を心配して家族や友人は言ってくれる。
だが、どうしても任せられないものがある。
それは母が後半生、心血注いだ習字のものだ。寝食忘れてのめりこんだ習字は母の心の支えであった。求道者のようにストイックに字と向かい合う母に妥協はなかった。
その姿は芸術家そのものだった。「もっともっとよい字が書きたい」その一念で命を削って書き続けた母の魂に平安があったのだろうか。母の口から習字のことが出ない日はなかった。私たちは母の習字話にヘキヘキしていた。「そんなに苦しいのなら習字やめたら。誰も頼んでいない。」と何度、母に言ってきただろう。だが、習字があったからこそ母は孤独な一人暮らしを全うできたと思う。
作品を提出した翌日、母は亡くなった。

山ほど残された紙と筆。捨てるわけにはいかない。f0234728_11271321.jpg
リサイクルショップで扱う類のものではないし、どうしたらいいのか途方に暮れた私は困りあぐねて、友人に電話をした。友人はある女性を紹介してくれた。彼女は30歳代の習字の先生だった。今は教えるのをお休みしているが、子供が大きくなったのでそろそろ再開したいと言った。習字用品であふれる部屋を見て「まるで宝の宝庫、習字の先生の部屋をいくつも見てきたけどこれほど揃っているところはそうない」と驚いていた。かな文字、漢字、作品の大きさ種類によって使い分ける紙に筆、同じラインの筆でも書きやすいものとそうでないものがあるなど初めて聞く習字話だ。母の習字話はいつも私たちの頭の上を素通りしていたからだ。

「(残されたものから)お母さんが本当に習字が好きだったとわかります。生きてみえられるうちにいろいろお話したかった。」習字を愛する者同士、きっと話は尽きなかっただろう。
「こんなにもらってしまってもいいですか」とためらう彼女に「どうぞどうぞ、ゴミにしかならないから」と言う私だった。これから子供にも教えるというので硬筆習字用紙、書初め用の半紙ももらってもらった。
車に入りきらない分は後で私が友達の家まで届けることになった。

「今まで頑張ってきたから、今日は(神様から)ご褒美をいただいたような気がします。」と涙を流さんばかりに感激する彼女に「母の魂がこもっているから大事に使ってね。」と言った。
繋がった、母の習字。

この日のために私は頑張って遺品整理してきたのだと思った。
私は初めて親孝行をした気がした。


*写真以外にもまだまだ用紙が出てきた。全部で箪笥3竿分くらいあった。
被災地で幽霊騒動が起きていると言う。
白い服を着た幽霊集団を多くの人が目撃しているらしい。さぞや無念だったのだろう、まだ成仏できないのだろう・・・・と考えるのはこちら側の人間だ。彼らは思い残す余裕もなく、亡くなってしまった。全身全霊で津波に対応したからだ。亡くなった人たちの遺体は両手を合わせかたまっていた。流されてくる電信柱、家の屋根、顔に当たりそうになるのを避けようとしたのだろう。必死に生きようとした尊い死だ。
成仏できていないのは幽霊を見た人だ。残された者の思いが幽霊を作り上げる。

空にかかった虹は空中に七色の光が存在するわけではない。見ている人の網膜に映るものだ。
・・と「幽霊騒動」と「虹」、わかりやすい例を挙げて「見る側のソフト」を説明するのは芥川作家で住職でもある玄侑宗久氏だ。

氏の話はあちこち飛び、残り30分となった時テーマである『無生死』にやっとたどり着く。
人は時間の流れで自分をとらえている。60歳になったから~、70歳になったから~。その捉え方でいくと80歳になったからそろそろ死なないとになってしまう。そういうものではないと多重人格のある女性のことを話した。
彼女は60歳代。だが15歳の少年の人格も持つ。15歳の少年になった時、彼女の眼は驚くことに老眼ではない。このことは時間というものは頭の中で作っていることを意味する。
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                                   <台湾 黄金瀑布>


玄侑氏はよく通る声だ。テレビ出演も頻繁にあるということで慣れた口調で話す。ユーモアも交えているのだが、仏教用語の語源やら科学(?)データからあっという間に哲学になるのでぼ~っと聞いていると置いてきぼりになる。
結局『無生死』とは何なのか、頭に残ったのは「幽霊騒動」と「虹」と「15歳の少年の老眼」である。この3ワードで『無生死』を説明するにはいくらなんでも無理だが、でもこれが残っただけでも講演会を聞きに行った価値があるような気がしている。
このところ、実家の遺品を日夜、整理している。
燃えるゴミ、燃えないゴミ、再生ゴミと分ける。
使える物はもらってくる。だが自宅のスペースも限界がある。捨てるには惜しい物。
これが厄介なのだ。親戚や友人知人にもらってもらう。
だが、それでも処分できないものはリサイクルショップに持っていく。
リサイクルショップは二束三文で買いたたかれる。それはちょっと悔しい。

絵や壺などは骨董品屋にもっていこうと思った。もしかしたら価値があるかもしれないじゃないですか。ネットで調べたら骨董品店は実家のすぐ近くにあった。
骨董品屋の店主は私が持ってきたものをざっと見て「これは骨董品じゃなくて贈答品や土産品ですね」。
骨董品とは名のある人が作った作品。なるほど、骨董品がそういう定義だったとは知らなかった。
すごすご引き下がる。しょうがない、品物を再びトランクに詰めてリサイクルショップに行く。もう処分することしか頭になかった。

査定をしてもらった。人のよさそうな定員さんが「正直、絵の価値はわからないんですけどね。額の値段ということで10円。」10円ですよ!
「花瓶もわからないんですけどね。もしかしたらこっちの方が価値があるのかもしれない。でもほらこちらの方がきれいじゃないですか。」大体、嫌味言いながら買い取る店員が多いのに随分、正直なお兄さんである。そう言いながらついた値段が600円。他の二つに比べると破格の高値である。

段ボール三箱分が売れた。大した金額にはならなかったが捨てるよりマシだ。
スッキリした。誰か必要な人が買ってくれるといい。

ところが、あのお兄さんが言った「ほら。こちらの方がきれいじゃないですか」が頭からこびりついて離れない。あの花瓶は実家の仏間の押入れに眠っていた。そうか、そんなに綺麗なものだったのか。言われるまで気が付かなかった。骨董品的な価値がなくても、美術工芸品は「きれいか。好きか」が大事なのだ。それに我が家にはロクな花瓶がない。あの花瓶はお正月用に華やかでピッタリだった。あってもよかったのに惜しいことをした。
次の日、他に処分するものも出たのでという理由をつけて、またその店に行った。
あった!よかったぁ。まだ売れていなかった。気のせいかその花瓶は一際目立っていた。
値段はと見ると2100円だった。安くない、というよりバカだ。売ったものを買うなんて。きっと反対するだろうが夫にメールした。しばらく待ったが返事が来なかった。次に来たらもうないかもしれない。バカだと思ったがどうしても欲しくなって会計に持っていった。
持ち込んだときは木箱があったはずなのだが、自分で新聞紙で何重にも包んで大事に家に持って帰った。
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結局、(差し引き)1500円で実家にあった花瓶を買った愚かな私である。
インド映画史上最高の製作費を費やした『ロボット』は本当にトンデモナイ映画だった。
終盤、大量殺人マシーンと化したロボットと人間の戦闘は延々と続き、いい加減、早送りしたくなった。この映画がインド国内で記録的な興行収入となったのはなぜなのだろうか。

調べると完全版は177分あるのに、日本版は139分だということがわかった。カットされた38分に大ヒットの答えがあるような気がする。

『恋する輪廻』はパーティー場面がやたら長かった。スターとおぼしき人たちが一人一人、赤じゅうたんに登場し、主人公と踊る。なかなか終わらない。20分くらいあったように長~く感じた。彼らは実際、インドで活躍する大スターたちだったらしい。
インドの人たちは「あ、あの人も出てきた。この人も」と狂喜したことだろう。だがインドのスターなど全然知らない私は繰り返される歌にのって続く同じようなシーン。カットしてもいいのにと思った。だが、『恋する輪廻』は日本で見ている我々の気持ちなど全く考えず、オリジナルを上映した。それで正解である。

特急に乗ったら早く目的地に着くが、景色は味わえない。各駅停車の旅は時間がかかるけど、ゆったりと車窓を楽しめる。3時間を超えるのが珍しくないインド映画は各駅停車の旅だ。唐突にはいるダンスや歌で途中下車しながら目的地に向かう。
『ロボット』の完全版を見たら私の感想も違っていただろう。
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インド映画になぜダンスシーンや歌が多いのか。『ロボット』はダンスや歌に縁が遠そうなSFアクションだ。私が『ロボット』のあら筋を話したら娘が「どうしてそんな映画にダンスシーンがあるの?」。その疑問はもっともだ。だが、ダンスを唐突に入れてくるのがインド映画だ。
インドでは多くの民族が住んでいて多くの言語が話されている。誰にでもわかりやすいダンスや歌が挿入されているのはそのためらしい。

多くの言語といえば『きっと、うまくいく』では言語も一つのキーワードになっている。
学年2位のエリートさえ理解できない言語があって、それが話の要ともなって展開していく。あそこはどうリメイクするのだろうか?国によってはリメイクしにくい箇所である。

インド映画の興味が尽きず、インド映画の旅はまだまだ続きそうである。
ロボット』はとんでもない映画だ。
インド国内最高の制作費37億円をかけて撮った大アクションSF映画。
膨大な制作費だけでなく、ハリウッドを目指し、真似し、追い越し、とうとうとんでもないところにいってしまった映画だ。
ふんだんに用いたCGとゲーム感覚の殺人アクションに私はもはや笑うことができない。目を背ける大量殺人場面。インド映画お決まりの歌とダンスが織り込まれていても見た後にザラザラ感が残る。

あらすじ: 10年もの月日をかけて、バシー博士(ラジニカーント)は自分と同じ姿かたちをしたハイテク・ロボットのチッティ(ラジニカーント)を開発。さまざまなトラブルを巻き起こしながらも、人間社会の規律や習慣を学んでいくチッティだったが、次第に感情が芽生えるようになる。やがて、博士の恋人サナ(アイシュワリヤー・ラーイ)に心を奪われ、強引に彼女に気持ちを伝えようとするが、それが博士の逆鱗(げきりん)に触れて解体されてしまう。博士への激しい怒りと、サナへの絶ち切れぬ思いから、チッティは殺人マシンとなって復活を果たすが……。(Yahoo映画あらすじより)

バシー博士の功績を快く思わない恩師ボラ教授。彼が甦ったチッティに埋め込んだチップ、それは「人を100人殺す力」。チッティは人格(?)が変わり凶暴なロボットとなって生まれ変わる。そしてついにはボラ教授をひねり殺してしまう。チッティは自ら分身を作り増殖し分身ロボットたちの独裁者となって君臨する。結婚式場からサナを略奪し、分身たちは追っ手を虫けらのように殺していく。分身たちは巨大な球となり(写真参照)、大蛇になり、列になったりと自在に形を変えていく。その劇画的なシュールさが圧巻だ。
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無表情なロボットたち、何度もバッテリー切れになっても甦る不死身集団は殺人マシンとなり大量虐殺する。ロボットを意のままにあやつるチッティ。誰も止められないチッティの暴走。どこかの国の独裁者を思い浮かべてしまう。サングラスをかけた風貌もらしく見える。独裁政治体制批判をしているのではないかと裏読みしてしまう。
前半、電車の中でサナが男どもに絡まれ羽交い絞めにされる場面がある。インドで多発するレイプ事件を思い起こしてしまう。娯楽大作だが、実は社会性の高いメッセージをもつ映画なのかもしれない。

博士の手で殺人チップが取り除かれ、まともな感情を取り戻したチッティは裁判で「ロボットは物質だ。物質が引き起こした惨事なので殺人でなく事故だ」と証言し博士をかばう。
チッティは死刑(分解)の判決を受ける。博士は自分の罪の重さにおののきチッティと抱き合う。チッティは見守る人間たちに語りかけながら自ら手をもぎとり足を抜き頭をとっていく。パーツがロボットとわかっていてもバラバラ殺人の遺体を想起させあまり見よい場面ではない。涙が流れそうで流れない。
20年後、チッティの頭は博物館に陳列されている。社会見学で訪れた子供たちは引率の先生に尋ねる。「どうしてこうなったの?」
チッティの頭は突然、子供に答える。「ロボットが感情を持ってしまったからさ」。ギョッとする子供。


制御不能となったロボットと人間の対立構造、近未来を警告する映画はハリウッドにごろごろありそうだけど、インドの味付けはやり過ぎなほど強烈でとんでもない映画になっている。

*去年、公開前からずっと気になっていた映画だ。
こういう派手なアクション大作までつくってしまうボリウッドはやっぱり凄い!
DVDを送ってくれた友達に感謝である。
でこぼこ山道を車で走る。道幅がだんだん狭くなる。
この道でいいのだろうか、次第に不安になる。
突然、視界が開けた。
が、切り開かれた土地に人家も木もなかった。
西部劇に出てくる果し合いの舞台にピッタリの、荒涼とした場所だ。

人が立っていた。こちらだと手招きする。言われた方向にバッグで車寄せする。
私は車いっぱいに詰め込んだごみ袋を降ろす。
ここは埋め立てゴミ処理場だ。広大な土地にゴミが点在していた。
係りの人は私がもってきた袋の口を開け、逆さにして中身をざっと確かめる。
ガチャガチャと食器の割れる音がした。

実家が空き家になって2年。
とうとう来月手放すことになった。築30数年の家だが、幸いなことに壊さずにすむ。
引き渡しまで約1ヶ月。実家の片づけに明け暮れる毎日だ。

収納が多い家というのも考えものだ。各部屋の押入れにぎっちりつまった物。
燃えるゴミ、埋め立てゴミ、資源ゴミ、取っておきたい物。一つ一つ仕訳してゴミ袋や段ボールに入れていく。やってもやっても片付かない。一つの押入れを空にしても天袋がある。もしかしてと開けてみるとそこにもぎっしりだ。押入れを見るのが怖い。
今どき見ない行李が出てきた。何が入っているやら開けるのが怖い。
物で膨れ上がった家に私は窒息しそうだ。


受付で言われた通りに車を走らせる。この道でいいのだろうか。
ぐるっと回ると果たして巨大な工場のような建物の入り口があった。
車を停めた。辺りは鼻をつく匂いで充満していた。
車止めほんの30センチ向こうに床はない。下をこわごわのぞいてみた。深さは20メートルはあるだろうか。ゴミが散乱している。ポケットに入れた車のカギを落としたら最後、もう見つからないだろう。
ここは燃えるゴミの処理場だ。私は車いっぱいに詰め込んだごみ袋を一つ一つ下にほおり投げる。
白いゴミ袋は音もなく奈落の底に落ちて行った。
私は自分の身体が落ちないようしっかり足をふんばる。

埋め立てゴミ処理場に燃えるゴミ処理場。
物の墓場はどちらも恐ろしく、寒々としていた。
台湾の人からいただいた『XO干貝醤』二瓶はあっという間になくなった。あの美味しさが忘れられない。11月に日本にやって来る彼らに、お土産リクエストするにしてもとても待てそうになかった。

ところで『恋する輪廻』は、ディープな歓楽街の路地裏にある雑居ビルの一角で上映していた。昭和にタイムスリップしたようなその映画館では、座席が足りなくなると折り畳み椅子のほかに座布団(席)が用意される。そのマイナーさ、半端じゃない。
古びたビルには中国食品店も入っていた。陳列棚には食品に混ざり怪しい(?)中国ビデオや本も雑然と置かれて、まるで異空間に紛れ込んだようなお店だった。
もしかして『XO干貝醤』があるかもしれないと探したが、置いてなかった。

店には「これは一体なんだろう」手には取るが、買うのに少し勇気がいりそうな商品が多い。
青いラベルのガラス瓶が目に入った。f0234728_19375860.jpg『朝天小魚』と書かれてある。小鰯、豆鼓の油漬けのようだ。赤唐辛子の小口切れも入っている。中国人とおぼしき店員さんは「辛いですよ。」と言う。どれほど辛いのだろうか、激辛だろうか。
だが『XO干貝醤』に味が似ている気がしてならない。豆鼓がどんな味かわからないのが不安材料なのだが、一瓶500円足らず。高くはない。思いきって買ってみた。
家に帰っておっかなびっくりで蓋を開ける。
心配だった豆鼓は思ったほど癖がなかった。『XO干貝醤』にかなり近い味だ。『XO干貝醤』は少し甘目だったが、こちらは唐辛子のパンチがほどよく効いていていい。

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翌日、いい考えが浮かんだ。『XO干貝醤』に入っていた干し海老と貝柱を入れたらどうだろう。早速、買い求める。高価な貝柱は「割れ」貝柱をネットで見つけた。


11月まで待たなくてもよかった。海老や貝柱が入り、しこしこ食感が加わってより近い味となった。目指せ!『XO干貝醤』は大成功!
私って天才かも(笑)